三鷹市ダンススポーツ連盟
            Mitakashi Dance Sport Federation

 

     ダンスの扉(社交ダンスの基礎知識・アラカルト)

このページの記述内容は、三鷹市ダンススポーツ連盟の公式見解ではありません。あくまで個人のエッセーとしてご覧ください。
三鷹市ダンススポーツ連盟・加盟サークル会員の皆様
「ダンスの扉」は、会員の皆さんが自由にエッセーを投稿できるページです。社交ダンスに関する内容であれば何でも受け付けます。日頃の蘊蓄をご披露ください。原稿(400字〜800字程度)は、三鷹市ダンススポーツ連盟事務局(km2341@docomo.ne.jp) まで。


※社交ダンスの誕生はいつごろ?(宮本謙介)
※ラテンダンス、音楽のルーツはアフリカ?(宮本謙介)
※タンゴはアルゼンチン発祥、なのにスタンダード?
(宮本謙介)

※ジルバはパーティーダンスで人気のある軽快でリズミックなペアダンス(松浦滋男)
※マンボはすぐに踊れる!やさしい社交ダンスの一種
(松浦滋男)

※加藤兵次郎の数奇な生涯(宮本謙介)


 次のような話題を順次掲載する予定です。
 (投稿予定者より)
 ※スローとクイックはルーツが同じだって?
 ※フロアのペア、反時計回りに進むのはなぜ?
 ※パソドブレって闘牛なの?
 ※ブラックプールにはだれでもエントリーできる?
 ※ルンバって2種類あるの知ってた?
 ※パーティーダンスは楽しい?
 ※社交ダンスの魅力は「非日常」?



※社交ダンスの誕生はいつごろ?
社交ダンスの起源といえば、ヨーロッパ宮廷の舞踏会で華々しく踊るウィンナーワルツをイメージする方が多いかも知れません。ウィンナワルツが起源であることに違いありませんが、そのルーツはもっと古いのです。発祥地については2つの説があり、ひとつはフランス・プロヴァンス地方のヴォルトという民衆の踊り、もう一つは南ドイツからオーストリアにかけて踊られていた民族舞踏レントラーです。
いずれも12世紀頃からルネサンス期にかけて、広くヨーロッパに、民衆から王侯貴族に徐々に広がっていったようです。しかし、当時の踊りはホールドしないラウンドダンスが主流でした。それが、18世紀後半ごろになると、男女のカップルがコンタクトしてクロスホールドで踊るようになり、この頃が社交ダンスの誕生と考えられています。こうしてヨーロッパでは、民衆の踊りが宮廷の舞踏会でもウィンナワルツとして流行したのです( 写真はルノワール作「ムーランド・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」)。
20世紀に入ると、イギリスを中心に競技ダンスの体系化も進みました。細部の規定が整ってくると、スポーツとしての性格も強まりました。また、北米でのジャズなどの流行に伴ってフォックストロットやジルバが、ラテンアメリカ音楽からはスクエアルンバ、マンボ、チャチャチャなどの新しいダンスも誕生しました。
国際的なルール化が進むと、日本で普及しているインターナショナルスタイル(イングリッシュスタイル)では、カップルが常にコンタクト・ホールドして踊る「スタンダード」とカップルが組んだり離れたりしてポジションを変化させて踊る「ラテンアメリカン」の2部門に大別されました。このインターナショナルスタイルでの競技会では、「スタンダード」をワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、ヴェニーズワルツ、クイックステップの5種目、「ラテンアメリカン」をサンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソドブレ、ジャイブの5種目としています(2部門合わせてテン・ダンス)。「ラテンアメリカン」の多くは音楽も踊りも中南米が発祥地ですが、ヨーロッパに渡って洗練され、今日のようなスタイルになっています。
(文責:宮本謙介 理事会副会長、ダンスサークル・キララ会長)


※ラテンダンス、音楽のルーツはアフリカ?
ダンスは音楽と一体になって踊るものです。音楽(リズム)に乗って踊れればとても気持ちよく、見ている人たちからも楽しそうに見えます。種目によって音楽も独特ですが、なんと言っても情熱的なのはラテン音楽、その中にはアフリカ起源のものも少なくありません。
サンバは、ポルトガルの植民地ブラジルのリオに渡った
アフリカ系奴隷が持ち込んだ音楽がルーツと言われています。それにヨーロッパの舞曲などの要素も加わり、現代のサンバとなりました。ブラジルのカーニバルで踊られるサンバとインターナショナルスタイルのサンバはかなり違いますが、16ビートの基本リズムはよく似ています。ブラジルの黒人音楽のルーツを更に辿れば、西アフリカのバントゥー族の踊りに行き着くようです。「サンバ」とはバントゥー族の言葉で腰の動きを指しており、これがサンバ独特のボディアクションの元になったのでしょう。
ルンバもスペインの植民地キューバに連れてこられたアフリカ系奴隷の民族音楽が起源で、それはソン(Son)などのラテン音楽に発展し、20世紀に入ってからキューバン・ボレロと結びついてルンバ(キューバン・ルンバ)となりました。キューバの黒人音楽のルーツもやはり西アフリカのバントゥー族の踊りで、「ルンバ」とは「集会」の意味、彼らは集まれば踊ったのでしょう。このルンバにアメリカのジャズの要素を取り入れたのがマンボ、さらにそのリズムが変化してチャチャチャとなりました。ジャズも19世紀末ごろ黒人音楽から生まれたものです。このように「奴隷貿易」の時代を背景として、アフリカの民族音楽がダンス音楽を発展させたのですから、華やかで情熱的なラテンダンスにも歴史の重みを感じさせます。
なお、パソドブレは、スペインの闘牛において、牛と闘牛士が入場する際の行進曲。ジャイブは、20世紀半ばにジャズがスイング化して「ジターバグ」と呼ばれ、これが日本では「ジルバ」、イギリスでは「ジャイブ」となりました。余談ですが、海外ではどこでも「ジターバグ」と呼ばれているのに、なぜ日本だけ「ジルバ」なのか。最初に「ジターバグ」という名前を聞いた日本人が「ジルバ」と聞き違えたという説が有力です。
(文責:宮本謙介 理事会副会長、ダンスサークル・キララ会長)



※タンゴはアルゼンチン発祥、なのにスタン ダード?
タンゴは、スタンダードの 5種目のなかでもシャープな動きの美しいダンスです。ステップで特徴的なのは、他のスタンダード4種目(ワルツ、スローフォックストロット、ヴェニーズワルツ、クイックステップ)のようなスウェイをかけて踊るスイングダンスではなく、 ボディをアップダウンさせないフラットダンスだと言う点です。タンゴの原型は、言うまでもなくアルゼンチン・タンゴです。
アルゼンチン・タンゴは、1880年代にブエノスアイレスなどの大都市の周辺部下層社会から生まれました。スペインやイタリアからアルゼンチンに渡った貧しい移民たちも踊ったようです。アルゼンチン・タンゴは、それ以前に中南米で流行っていたハバネラ、ミロンガ、 ファンダンゴなどのダンスが融合して誕生したとも言われています。植民地社会の重層的な混合文化(土着文化、黒人奴隷のアフリカ文化、ヨーロッパ移民文化、および混血児メスティーソたちの文化)を背景としており、男女の激しい情愛表現や即興性が特徴的です。
そのアルゼンチン・タンゴが、20世紀に入るとヨーロッパに渡り、フランスのパリなどで大流行し、やがてイギリスにも上陸しました。当時のイギリスの社交ダンス界では、細部の規定を整えて競技ダンスの体系化が進んでいました。アルゼンチン・タンゴがそこに取り込まれると、 改造が加えられ、大きく変貌しました。ステップの標準化が図られて即興性はなくなり、男女の激しい情愛表現なども削ぎ取られました。インターナショナルスタイル(イングリッシュスタイル)のタンゴは、アルゼンチン・タンゴと区別して、コンチネンタル・タンゴと呼ばれるようになりました。 現在、私たちが社交ダンスで踊るタンゴは、厳密にいえばコンチネンタル・タンゴです。
1930年代には、男女が終始コンタクト・ホールドして踊る現在のタンゴの形ができあがり、スタンダードの1種目になっています。スタンダード種目の共通した特徴は、男女が終始コンタクト・ホールドして離れず、一体になって踊るところにあります(英語圏では「ワン・ピース one piece で踊る」とも言います)。
しかし、タンゴ音楽は世界共通です。タンゴの切れ味鋭くドラマチックな踊りは、どこかアルゼンチン・タンゴを彷彿とさせますし、欧米で誕生した他のスタンダード種目とはひと味違うように思われます。
(文責:宮本謙介 理事会副会長、ダンスサークル・キララ会長)


※ジルバはパーティーダンスで人気のある軽快でリズミックなペアダンス
ジルバは社交ダンスの一種。 1945年(昭和20年)、第二次世界大戦の終戦とともにアメリカ駐留軍によって日本にもたらされた。 ジルバはリンディホップ(英語版)、ジャイヴ(英語版)とともにスイングダンス(英語版)として知られ、アメリカのジターバグ (Jitterbug) から転訛したものと言われている(米英語では "ter" が「ラ」に、"g" の発音が消えて、ジターバグが「ジラバ」に聞こえ、このジラバがジルバに転訛したと考えられる)。
日本にもたらされたのはシングル・リンディ形式 (SSQQ) のリズムで踊られる。軽快でリズミックなこの踊りは一般大衆に受け入れられ全国に広まっていった。 現在でもパーティーダンスで人気のあるペアダンスである。 同時期にイギリスへ渡ったこの踊りは、ダブル・リンディ (Q&Q, Q&Q, QQ) のリズムを基調とするジャイブとして完成された。 ジャイブはラテン種目として現在ダンス競技会でも踊られている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2018年10月30日 (火) 12:21

関連「YouTube動画」紹介
「イシカワヒロユキダンススタジオ(八王子)」石川浩之・菅野純代先生(元JCFラテンチャンピオン)
動画先生#51【ジルバ(基本編)】社交ダンス。。。2020/07/06に公開済み
動画先生#052【ジルバ(応用編)】社交ダンス。。。?2020/07/11に公開済み

(おまけ)70代以上の一部の方しか知らない「ハマジル(横浜ジルバ)」も「検索」してみてください。4拍子で踊りますので、むしろ若者向きかもしれません(笑)
(引用・紹介文責:理事 松浦 滋男・ダンス・コパン会員)


※マンボはすぐに踊れる!やさしい社交ダンスの
一種
マンボ(Mambo)は、1938年、キューバで起こった踊りで、1950年代、それまで流行っていたルンバが衰退するにつれ、一気に流行りました。 歴史的にみると、17世紀にスペインのコントラダンザ(Contradanza)と言う踊りが入ってき、ハイチの奴隷音楽シンキージョ(Cinquillo)と結びついてマンボの原型ができたようです。
マンボには、オン・ワン(On One)とオン・ツー(On Two)の踊り方があり、前者では音楽の1で、後者では音楽の2で1歩目がスタートします。 (引用:「熱心なダンサーへ贈る読むダンス用語集」著者/神元誠・久子 発行所/株式会社白夜書房 P183)
(おまけ)学生時代、初めてダンスパーティーに誘われた時、その場で手を取って教えられたのが、今思えば、このオン・ワン(On One)のマンボでした(日本ではこれが標準?だったようです)。 シニアーになって、キューバン・ルンバやチャチャチャを習うようになって、1から動いてしまうのはこれが原因だと言い訳をしています(笑)
(引用文責:理事 松浦 滋男・ダンス・コパン会員)



※加藤兵次郎の数奇な生涯
社交ダンス愛好家の皆さん、加藤兵次郎をご存じでしょうか。日本の社交ダンス界の草分け的存在であり、開拓者とも言われる人物ですが、意外と知られていないようです。
加藤兵次郎は、1890年(明治23年)、函館の老舗呉服店の長男として生まれます。17歳のころ、音楽仲間に誘われてアメリカ領事館に出入りするようになり、社交ダンスと初めて出会います。ダンスの魅力に取り付かれた兵次郎は、ダンスと共に国際感覚を身につけたいという理想を持つようになります(写真は若き日の加藤兵次郎)。
1919年(大正8年)、呉服店を継いだ兵次郎は、デパート経営の視察という名目でアメリカに渡り、当時大流行していたフォックストロットを学びます。更にヨーロッパ各国でもダンスを見聞します。帰国後は、函館で「社交舞踏会」を結成しますが、周囲の理解を得られません。当時の日本には、男女が体を接触して踊るような文化はなく、むしろ「不道徳」「社会的通念に反する」との見方も根強かったのです。
兵次郎は東京への移住を希望しますが関東大震災で果たせず、大阪に移ります。大阪ではアメリカ流のダンスホール(チケット制の「タクシー・ダンスホール」)を初めて導入、各地のホールで自ら教師も務めます。この頃には、兵次郎の名声は広く知られるようになっていました。
日本全体が軍国主義化し、欧米流のダンスが厳しい取り締まりを受けるなか、兵次郎はダンスを通して国際親善に尽力します。1931年(昭和6年)には2度目の洋行でヨーロッパ各国のダンスを視察、1934年(昭和9年)にはアルゼンチンを訪れ、本場のアルゼンチン・タンゴを学びます。帰国後、東京や大阪で開かれた「帰国歓迎デモンストレーション」でアルゼンチン・タンゴを披露しますが、高い評価は得られません。 当時の日本のダンス界は、ダンスへの偏見を払拭するため、「健全な競技ダンス」に傾斜したイギリス流のインターナショナルスタイル(イングリッシュスタイル)が主流になっていました。各国に特有のダンスをあるがままに学ぼうとする兵次郎の姿勢とは相容れなかったのです。兵次郎は、イギリス流のダンススタイルに、戦前の「7つの海を支配した大英帝国」の威信=圧力を感じていたのかもしれません。
戦後も兵次郎はイギリス流のダンススタイルには与せず、あくまで「社交」のダンスの道を追求しました(1954年1月死去、享年63歳)。
兵次郎の生涯をみると、日本の社交ダンスのディレンマとも言うべきものが窺えます。ダンスに対する偏見や誤解を払拭しようとして競技ダンスに傾斜すればするほど、「社交」のダンスから離れてしまいます。しかし、社交ダンスと競技ダンスは、本来対立するものではないはずです。両者をいかにバランス良く発展させるのか、これが我々の課題とも言えそうです。(参考文献:永井良和『社交ダンスと日本人』晶文堂、1991年、同『にっぽんダンス物語―「交際術」の輸入者たち』リブロポート、1994年)
(文責:宮本謙介 理事会副会長、ダンスサークル・キララ会長)




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